藤岡城(藤岡町)

藤岡町の中心部一帯が城域であり、東武藤岡駅付近も城域であったという。
東から西に突き出た半島状の岡に築かれ、3郭からなっていたという。

三郭付近に藤岡駅があるが、この付近は住宅地になり遺構は分からない。
その西側、二郭には工場が建っており、ここもほとんど遺構が破壊されているが、斜面などは何となく城っぽい感じはする。
工場の西、本郭と二郭間の堀は良く残っている。幅は20m近くある。

本郭部は良く残っているが、訪れたのが5月ということもあり、草が茂ってよく分からない。
本郭の南側には櫓台のような高まりがあり、斜面に曲輪がある。
先端部はだらだらしているが、岡の下にも堀状の溝があり、一段高く、曲輪のような高まりがある。
(後世のものかも)岡の比高は10m程度ある。

沼沢地の中の比高15mほどの微高地を利用し、堀で連郭式に分けた城であった。
周囲の堀には渡良瀬川から水を引き入れていたという。
本丸の先端部に櫓台のような出っ張りがあり、ここに三所神社が祭られている。
ここは物見台のような場所であったかもしれない。

この地に初めて城館を築いたのは平将門であったという。(花岡館)
その後、寛仁2年(1018)、足利成行が中泉城として、城を再興し、一族の佐貫重光を城将として置いたという。
後に城は藤岡城と改められ、戦国期には藤岡氏の居城となった。

天正5年(1577)、藤岡佐渡守清房は、佐野宗綱と戦って破れて自害、城は佐野氏のものとなった。
そこで城代として茂呂弾正久重が入ってきた。
後に小田原の役が起こると、城は廃城となった。
城下の繁桂寺には藤岡佐渡守清房のものと伝えられる五輪塔が残されているという。

北側から見た城跡。土塁が見える。
当時は写真のように周囲は沼地であったらしい。
左の写真の場所を台地上の城域である南側から
見たもの。写りは悪いが堀である。
台地の南には櫓台のような高まりがあった。

小南城(藤岡町都賀)

佐野アウトレットから南東方向を見ると1q先に東側から西側に突き出た山が見える。
これが小南城である。
三杉川に面した比高25mほどの独立した山で東西200m、南北100m位の小山である。
この西端が盛り上がっており、ここが本郭であり、東側に段々状に曲輪があったらしい。
「栃木県の中世城館」掲載図を参考に描いたのが右図。

本郭があった場所には廃城後、願成院という寺院が建てられ、廃寺後、現在は墓地となっている。
墓地内は段々状になっているが、これは後世の造成によるものである。
しかし、北側に土塁のようなものがあり、東に続いていた。
西端の最高箇所に登ってみるが、そこは平坦ではなく、ただの山にしか見えない。
廃屋のようなものがあり不気味であった。
墓地の東側は一段下に畑があり、これは曲輪のようである。
その先は良く分からなかった。
本郭北側には土塁が残るが、風よけ
の土塁のように見える。
本郭西側の山の最高箇所は平坦
でなく物見台であろう。
不気味な廃屋がある。
本郭跡には寺院があったという。
現在は墓地になり、3段になっている。
どこまでが本来の城のものかは不明。
本郭の東下が二郭らしい。
現在は畑である。北側には土塁が残る。

文治5年(1189)飯塚瀬氏が築城したと伝わるが、時は平安末期である。その後、どのように使われたかは分からない。
ただし、物見の城としては絶好の場所にあるので戦国時代まで使われたのではないだろうか。
沼尻合戦に使われたとしたら位置的に北条軍の陣城であっただろう。

只木城(藤岡町甲)

三鴨小学校の東700m、東に蓮花川を臨む比高10mの台地の縁、やや台地側に本郷地区に飛騨屋敷、角之内(すみのうち)、新屋敷(あらやしき)という3つの方形館があったという。
只木城とは3つを総称したものか、この内の1つをいっているのか分からない。飛騨城ともいう。

この付近は蓮花川が大きくカーブしており、この城のある台地は東側に突き出た形となっている。
また、この付近の台地は凹凸していて複雑な地形であり、住宅地になっているためどれが遺構なのか判別がつかない。
何となく切岸や土塁っぽいものがところどころにある。

小館が3、4つ集合している似た遺構に群馬県みどり市(旧笠懸町)の藤生屋敷があるが、ここは分家が周囲に屋敷を設けたものという。
ここの3つの館も一族が分家して建てた屋敷なのかもしれない。築城は文明10年、落合飛騨守と伝えられる、戦国時代末期の天正18年まで存続したいう。
落合氏についてはよく分からないが、天正18年廃城というと北条氏に与し、小田原の役で没落したと思われる。
写真は残存する土塁と推定される遺構。

太田城(藤岡町太田)

国道50号の岩舟小前の交差点を県道168号線に入り南西方面に1.5qほど走った太田地区の稲荷神社の南西付近にあったらしい。
しかし、現地に行ってみると北西に水田を望む微高地であり、畑と宅地となっており、堀や土塁は見当たらない。
写真は本郭内から北東側を撮影したものであるが、「栃木県の中世城館」掲載図と照らし合わせると、林手前の畑が窪んだ部分が堀跡であったようである。
既にほとんど、湮滅してしまったようであり、資料と照らし合わせてかろうじて遺構跡と判別できる程度の状態である。
東西50m、南北100mほどの単郭の館であったという。
藤原秀郷の曾孫であった藤原兼光が居館として築き、その子孫政光が小山に移って小山氏を名乗り、この時、廃館となったという。
しかし、昭和30年頃には土塁と堀は残存していたというので、政光退去後も使われていた可能性もある。
また、この地は関東の覇権を巡って北条氏と佐竹氏が対陣した沼尻合戦で佐竹・宇都宮軍が布陣した地でもあり、この対陣で陣地として使われた可能性もある。

佐野城(佐野市若松町)

JR両毛線「佐野駅」の北側、城山公園が城址である。
「春日岡城」ともいう。
公園化が進みすぎてほとんど城址の雰囲気はなく、かろうじて郭間の堀が城址であることをしのばせる程度である。
城は比高15m程度の岡に直線連郭式に4つの郭を並べたものにすぎないが、岡の周囲に水堀を巡らせていたらしく、北側、東側に堀が残っているが、その他の部分は市街かのために失われている。
駅側の駐車場となっている場所が三の丸であったといい、北側の主郭部よりは一段低くなっている。
その北側上が二の丸であり、ここに記念館が建つが、斜面を斜めに登る。
おそらく当時もこのような感じで登ったのであろう。
三の丸は姿を変えてしまっているが、50m×80m程度の広さであったという。
二の丸との間に堀があったらしい。
二の丸は70m×100m程度の広さであったと思われる。
北側の本丸との間には堀がきれいに残る。
2の丸から見下ろした3の丸。 2の丸、本丸間の堀。 本丸の石垣。枡形のものらしい。 本丸内部。この付近が虎口らしい。
本丸、北出丸間の堀 北出丸内部。 2の丸内部。 外郭北側に残る堀跡。

深さが8m、幅は12mほどである。本丸側に内枡形があったようであり、発掘調査で石垣が見つかっている。
本丸は二の丸とほぼ同程度の広さである。
その北側が堀を隔てて北出丸である。
この堀は深さが6m、幅10mほどである。
北出丸は半円形をしており20m×50mほどの広さである。

この城は佐野信吉が慶長7年(1602)に唐沢山城から移転して築いたものである。
しかし、小さい城であり、造りは単純かつ簡素、言葉を換えれば、手抜きをしたという感じである。
山の上では領内統地には不便であるため、ここに陣屋を構えただけという感じである。
唐沢山城は廃城したということになっているが、その形跡は全くない。
おそらく、佐野城を根小屋として使用し、唐沢山城は詰の城という考えが佐野氏にはあったのではないだろうか。
築城当時はまだ豊臣氏が大阪城で健在であり、戦国時代は完全に終わってはいなく、また戦国時代に戻る可能性もあったので、佐野氏がこう考えるのも妥当だろう。
しかし、佐野氏は慶長19年((1615)、大久保忠隣の改易に連座して、改易されてしまう。(後に旗本として復活。)
佐野信吉自身も豊臣氏家臣の家から佐野氏に養子に入っているので、徳川氏の豊臣系大名取りつぶし政策の一環で、徳川に言いがかりを付けられたための事件であろう。
都合、佐野城はわずか12年間という短期間しか使用されなかったことになる。

赤見城(佐野市赤見)

赤見の微高地に築かれた完全な平城であり、立派な本郭の堀と土塁が残っている。
一部、南東部の土塁が赤見城保育園の建物の建設で失われ、郭内は保育園の園庭になっている。
周囲には高さ4mほどの土塁が1周し、南に虎口が残る。
西側の堀は水を湛えており、堀の西側にも土塁が残る。
この部分の遺構は素晴らしいが、平日にここに来るには気が引ける。
何しろ平日この土塁の上でカメラを持ってうろうろしていたら、不審者と思われてもしかたがない。
来るのなら保育園が休みの日に限る。


北側の堀はほとんど埋まり、外側の土塁が若干残るのみである。
東側は堀は道路になってしまい湮滅している。
保育園前に城址に建つ説明板(石碑)が建つが、これによると本郭の周囲に二郭、三郭、西郭、外郭部があり、堀と土塁で仕切られて、非常に広いものであったらしい。
しかし、現在では市街地化に伴ってすっかり失われてしまい、東側の一段高い畑が曲輪の形状を伝えるだけである。
本郭は小さく、郭内部は50m×40m程度に過ぎない。
単郭の居館から拡張し、最後には町屋を取り込んだ小規模ながら総構え構造まで発展した城であったらしい。
藤原流足利氏、足利俊綱が安元2年(1167)に築いた。
俊綱は子の忠綱に譲り、治承2年(1181)赤見城に移ったという。
源頼朝の叔父である志田義広が頼朝に反旗を翻すと足利俊綱は志田義広に組し、小山朝政軍に敗れさらに和田義盛の追討を受け、俊綱は忠綱とともに家臣桐生六郎の内応によって殺された。
この時点で赤見城は一度、廃城になった。
本郭北の堀 本郭の土塁上。
高さ4m程度ある。
本郭西側の堀。
向こうにも土塁がある
畑が二郭跡。水田も城域であった。

その後、この地は佐野氏の支配するところとなり、戸賀崎氏が城を修復して居城とし、永正12年(1551)から赤見伊賀守(戸賀崎氏の子孫)が城主になったが、佐野氏と対立。このため、佐野泰綱が夜襲をかけ、赤見伊賀守は奮闘するが、やがて力尽きて常陸に逃れた。
その後、赤見氏は佐野氏の下に復帰し、重臣として足利長尾氏、北条氏との戦いに奮戦する。
佐野氏北条氏に屈するが、赤見氏は反北条派の中心となり、小田原の役では天徳寺了泊の唐沢山城奪還に大きく貢献した。
佐野氏は江戸時代に改易されてしまい、この時点で赤見城も廃城となった。

椿田城(佐野市)

椿田城は国道50号線と県道7号線とが合流する立体交差の南西600m、西濃運輸倉庫の西側にある。
西の才川を外堀にし、東側の水田地帯は当時泥田であったと思われ、これらを要害にした館であったと思われる。

大きさは東西65m、南北100m程度の単郭である。城址には立派な城址碑が建ち、周囲には水堀が残る。
城址碑の南側に椿田城主福地氏の守護神である十一面観音堂がある。

説明板によると福地氏は、丹波福知山の福知氏がこの地に来て、佐野氏に仕え、福地に改名したものという。
この時、十一面観音を家宝として持ってきたという。
この十一面観音は5.3p程度の黄金の小さなものであるが、南北朝の戦いで福地氏の先祖丹波守直久が身に付けて出陣し、矢を受けたが兜を貫通せず、怪我もせずに帰還したと言われる。
このため、福地氏は応仁年間(1467〜8)観音像を祀る堂を建立し大切にしていた。
その後、福地20代出羽守寧久は天正11年佐野宗綱に従い足利長尾氏との戦いに出陣した。
この時、観音像を兜に付けて出陣し、鉄砲の弾を兜に受けたが、弾がはじけ、負傷せずにすんだといい、福地氏は益々信仰を深めたという。

城は永禄3年(1560)、唐沢山城の支城として築かれたといわれている。
佐野氏は戦国末期に北条氏に乗っ取られるが、佐野氏は一貫して反対の立場を取り、小田原の役では赤見氏とともに天徳寺了泊の唐沢山城奪還に大きく貢献した。佐野氏は江戸時代に改易されてしまうが、福地氏は帰農し、この地で庄屋などを務めた。
今も城址には福地氏の住宅があり子孫が住んでおられる。

堀田佐野城(佐野市植下町)
植野城ともいう。この城は戦国城砦ではなく、近世の城である。
城と言っても規模からして単郭の陣屋である。

国道50号線を佐野ICから足利方面に3qほど走ると北側に堀田稲荷神社の土壇が見える。
この周辺が城址であるが、ほとんど畑である。北側に立派な碑や標柱が建っている。何とこの標柱では「佐野城」としている。
しかし、一般に「春日岡城」が佐野城であろう。何で佐野城を称しているのだろうか。

碑には城の縄張も描かれているが、やはり規模としては陣屋である。
ただし、四角という単純な形状ではなく、結構カクカクした形状である。
東西540m、南北360mもあったというが、本当にこんなに広かったのだろうか。

稲荷神社の土壇も確かに城の一部である。ここは城の象徴的建物である御殿の一部であったようである。
その西側は切岸状に段になっているが、その南側の低地は堀跡であろう。
東側に「ひょうたん池」があり釣堀になっているが、これは当時からのものであると地元の人が言っていた。
北側、西側の遺構はほとんど失われている。

既に江戸時代も末期、文政11年(1828)に堀田氏の城として築城されたという。
明治もすぐそこであるので41年しか使われていなかったことになる。

御殿跡に建つ堀田稲荷神社 城址南側。家のある場所が城内、切岸
が土塁の跡らしい。
東側にあるひょうたん池。

清水城(田沼町吉水)
唐沢山城の西の山麓にある佐野氏系の城郭。
現在、興聖寺の境内となっているので、興聖寺城とも呼ばれている。
県道16号線沿いに興聖寺があり、県道からも土塁が見える。しかし、寺の山門は東側であるため、ぐるっと反対側にまわらざるを得ない。
この方面にも土塁があり、堀まである。
土塁の高さは2m程度である。
館の大きさは110m×130mほどある。

周囲に北二郭、南二郭さらに三郭まであったらしいが、本郭が寺院となって残る他は市街化で全く失われてしまっている。
鎌倉時代初期、安貞2年(1228)佐野国綱が,木曾義仲の子、義賢が岩崎義基として名を替えてこの地に来たのを保護し、居城とするために築城したものという。
木曾義仲の名が出てくるのは意外であるが、これも岩崎氏が先祖に箔を付けるためのよくあるでっち上げかもしれない。

岩崎氏は代々居城するが、永正年間(1504〜21)岩崎城に移り、大永元年(1521)には佐野左近将監季綱が清水城主となったが、家臣の田沼・中江川・河田・天沼・清水・今宮氏らが交代で在番していたという。
戦国期には唐沢山城の西を守る城として重要視されていた城である。
廃城は佐野氏が改易された時であろう。

興聖寺山門。この部分は土塁が枡形
になっている。
境内を覆う土塁。横矢になっている部
分がある。
山門前の堀跡。かなり埋没している。